鎮西学院高等学校



鎮西ブログ

チャペルではどんな話があるんだろう

◆違って当たり前◆



 人は年を取れば取るほど頭が堅くなってしまいます。それこそ柔軟な頭と心を持つことが出来るのは、高校生の時代かもしれません。ですから今 朝は、柔軟な頭と心を持つ皆さんに、あるクイズをしたいと思います。皆さん、良く聞いて、考えてみてください。

 ある所に仲のいい親子が暮らしていました。普段父親の方は、仕事が忙しく、なかなか息子と接する機会がなかったのですが、ある時、父親の 休みと、息子の休みが、たまたま重なったので、父親は息子を誘ってドライブにでかけたのです。息子の方は久しぶりにお父さんと出かけることが 出来ると喜んで、楽しいドライブになるはずでした。とろこが、車が山道は入った時のことです。ちょうど対向車線から、一台のトラックがやってきま した。そのトラックは運転手のいねむり運転により、自制がきかなくなり、反対車線へと飛び出してしまったのです。「このままではぶつかる。」父親 はあわててハンドルを切ります。しかしハンドルを切りそこなってしまい、この親子の乗った車は、崖下へと転落しました。たまたま後を走っていた 車が、その現状をみていて、あわてて通報します。救急隊や警察がやってきて、応急処置がほどこされ、幸いなことに親子とも息がありましたの で、救急病院へと搬送されました。そこで事件が起こります。救急病院の担当医が、運ばれてきた少年を見て、こういったのです。「この子は、私 の息子だ。」 さて、何故、このようなことが起こるのか、皆さん分かりますか。

 このクイズは、私が大阪時代に教会にやってきた女子高生からだされたクイズであります。最初このクイズを聞いて「こんなことありえない。お父 さんが2人もいるなんて。」と考えました。「わかった。そのお父さんは、お母さんが再婚してのお父さんで、そのお医者さんは、その子の実のおとう さん。」と答えました。するのその女の子は、たった一言こう答えます。「ちゃう。この子のお父さんは一人だけ。」。お父さんは一人しかいないの に、なんで怪我をしたお父さんと、お医者さんのお父さんと2人もいるのか。不思議で仕方ありませんでした。「わかった。今の世の中、科学の進歩 はめざましい。実はそのお医者さんは、クローン人間だ」とこたえました。するとその女の子は「アホちゃう。SF映画の見すぎや」。そう答えてくるの です。いくら考えても、「なんで、お父さんが2人もおんねん。」とぬかるみにはまってしまいました。いくら考えても答えが出せない歯がゆさで、カァ ーっとしてしまいましたが、このままではラチがあかない。とうとう降参し、答えを求めたわけです。すると彼女はこう答えをいってくれました。「その 先生、実は、その事故にあった子のお母さん。」。

 この答えを聞いて正直、この女の子を「どついたろか」と思いました。しかしよくよく考えた所、その子は何も悪いことはしてない。それ所か、ただ 医者と聞いただけで、男とおもいこんでしまった私に、問題があった訳です。確かに優秀な女医さんはたくさんおられます。しかし医者=男。それも 重傷患者を見るのは外科医ですから、外科医とくれば男だろう。白い巨塔に出てきた財前五郎のような、男の医者を想像してまったのです。いか に私自身が先入観でものを見ていたかを気付かされ、時間をかけて、考えるならば考える程、完全な思い込みをしていたと、反省させられました。 実はこの思い込みや先入観が、いかに人を傷つけ、差別し、偏見の目で見てしまうかを痛感させられたのです。そして、そのことが、いじめを生み 出し、助長させているのではないかと思うのです。

 さて、私の恥ずべき体験をお話ししましたが、皆さんはこの様な経験はありませんか。自分の胸に手をあてて考えた時、多かれ少なかれ、一度 はあるとおもいます。人はそれぞれ異なります。顔も考え方も、声も違います。そして違うことが面白いのであり、違うからこそ意味があるのです。 ところが違って当たり前なのに、人は全てを同じように考えるのです。自分と異なる人間に出会った時、その人を自分と異なるだけで「おかしい」と か「かわっている」とか。自分の全ての基準にして考えてしまい、少しでもことなれば「変わっている」とのレッテルを貼ってしまう。実にことことが、 差別や偏見をうみだすのです。人はそれぞれことなるのです。だからこそ、各々に役割があたえられ、この社会が円滑に進むのではないでしょう か。

 たとえば、人間全てが自分と同じだったらどうでしょうか。みんなが同じ顔で、同じ考えを持ち、同じ声をして同じ行動を取る。こんな社会には進歩 はありません。独善的で面白くもクソもないでしょう。異なるからこそ面白い。異なるからこそ意味があるのです。そしてその違いを互いに受け入れ ることによって、人は成長し、共に歩み、人間固有の能力や使命を果たせるのです。

 今朝のテキストはまさしくそのことを語っています。パウロは分裂しかかったコリントの教会に対し、体の部分を使って、互いに認めあうことの重要 性、そして神による一致を勧めているのです。たとえば、目という体の部分があります。この目はものを見る上で、もっとも優れた部分です。その目 が、耳に向かって「お前は、ものを見ることが出来ない。お前はいらない」と言ったとしましょう。ものを見る上で、目以上に優秀な体の部分は、ほか にありませんので、言われた耳は黙るほかありません。耳はものを見ることはできないからでしょう。ところが、ものを見ることが出来ない耳です が、ものの音を聞く上で、耳以上に優れた場所はないわけです。見るという能力に欠けている耳も、聞くという能力では、体の部分で一番力を発揮 する。つまり、私たちの体は、どの部分も、各々の役割をもっており、どの場所も必要なのです。どれか一つでも欠けてしまえば、体はスムーズに は動かないのです。私達の体は、どの部分も必要であり、重んじられなければなりません。必要のないものなど、何一つないのです。そしてこのこ とは、私達人間にも言えるのです。どの人も必要であり、いらない人は、誰一人としていないのです。なぜならば、私達はキリストの体であり、一人 一人はその部分なのです。体であるキリストは、その一部分である私達すべてを、尊いものとして下さり、唯一の存在であるとしてくださっているの であります。

 今この場にいる全ての人間も、一人一人異なっています。成績の善いものも、悪い者もいます。スポーツが得意な者もいれば、不得意な者もい ます。その違いを探していけば、全ての人間は異なってくるのです。けれどその違いは、各々の役割の違いであり、個性でもあるのです。いわば 一人一人が各々の役割によって、社会は成り立つのです。どうか違って当たり前ということに気付いて下さい。そしてその違いを受け入れてくださ い。違うからこそおもしろいのです。

 この鎮西学院が、人間一人一人の違いを当たり前のことと考え、その違いを受け入れることの出来る集団であることを願っています。そして、「一 つの部分が苦しめば、すべてが苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という言葉を心にとめ、歩んでいける集いであるこ とも願っています。この場に集う一人一人が神によって尊い存在とされている、いわゆるOnly Oneであります。私達はそのことを、いたる所で耳に していますが、自分がOnly Oneであるのと同時に、自分以外の全ての人も、Only Oneの存在なのです。いわゆるOnly OneはOnly youでもあるの です。この場に集う私達一人一人が、そのことをしっかりと理解し、互いに認め合い、受け入れることのできる私達となりますよう、学んで行きたい と、節に願い求めるものであります。

◆与えられた賜物を発見し、それを活かす時◆



  先日ある女子の生徒から「先生のおうちって、学校から一番近いところにあるんですよね」と言われました。確かに鎮西の敷地内まで、直線距 離で10mの所にありますから、先生方の中で一番近いところに住んでいるのかも知れません。5年前に引っ越してきましたが、当初は、あまりに も学校に近いこともあり、多くの先生方に冷やかされましたし、私の友人等は、そのあまりの近さに「気の休まる時間もないのでは」と心配してもら ったのですが、今は結構住みよい環境に満足しております。たしかにあまりにも学校に近いと言うのは、ある面、気の休まる時はありません。自宅 から学校は丸見えでありますし、逆に学校から自宅が丸見えな訳ですから、一日中校内にいる感覚すらありますので、ホッと出来ないこともありま す。けれど、今の家に引っ越してきて、逆に多くの発見がありました。今まで気付くことの出来なかったことに気付かされました。そう考えると、あ の場に家を与えられたことに感謝する次第であります。では、その発見とは何か。それは私の知らない所で多くの人が努力している姿を見ること が出来るというものです。

  我が家の中で、私が一番ホッと出来る場所とは、実はベランダであります。ベランダに出て、一服つける時はまるで至福の時であります。ベラ ンダからは西諌早ニュータウンが一望できますし、左手の奥の方には大村湾までみえます。特に夕方、西の空が茜色に染まる時、飛行機が空港 へと高度を下げて飛んでいる光景は、最高のロケーションであります。そこで一服付けたり、ぼぉーっとしておりますと、様々な光景や、いろんな音 を耳にします。例えば、夜寝る前にベランダに出ますと、寮の学習室の明かりが灯っているのを目にします。学習室ですから当然そこで誰かが学 習しているわけですが、深夜の1時を過ぎた時間。こんなに遅くまで学習している生徒がいる。その姿に勇気付けられるのもしばしばです。こんな 言い方をすれば、「単に勉強しろ」と言っているように聞こえてしまいますが、それだけではありません。ベランダからは色々なものが見聞きできる のです。朝早くにランニングしている陸上部や卓球部。夜遅くまで体育館で練習するクラブ生。又、グランドからは、「ピッー」とサッカー部のホイッス ルの音が聞こえますし、掛け声と共に、「カキン」というバットでボールを打つ音も聞こえます。休みの日には、朝早くから、トランペットのロングトー ンの音も聞こえます。つまり今まで気付かなかった生徒諸君の姿やその音を見たり聞いたりすることにより、「頑張ってるなぁ。よし、ワシもいっちょ うやったろか」と言う気にさせられます。いわば、皆さん方が頑張っている姿、一つのことに熱中し努力する姿は、実に多くの人に感動を与え、その 勇気の源となるものであります。そしてそのことが一番充実して出来るのが、高校時代であり、今こそしなければならないことなのであります。
  今朝のテキストも実にそのことを述べております。一年生の聖書の時間で習われたでしょうし、時折いろいろな先生方がこの箇所を用いて説教 されますので、皆さんの記憶の片隅に残っている聖書の一説だと思います。時間の関係上、その最後の部分のみ読んで頂きましたが、その内容 はこういうものです。

  主人が旅に出掛ける際、3人の僕を呼び、それぞれの力に応じて、それぞれに5タラントン・2タラントン・1タラントン預けて旅に出掛けます。旅 から帰って来た主人は、僕を呼び寄せ清算をし始めます。5タラントン預かったものは、それを元に商売をし、他に5タラントンを儲け、合計10タンラ ントンを主人に差出します。主人はたいそう喜び、この僕を「よくやった」と誉め、より多くのものを管理させる約束をします。同じ用に2タラントン預か った僕も、そのタラントンを倍額4タラントンにして差出し、主人に誉められます。ところが1タラントン預かった僕は、主人が恐ろしい人物だと知って いたので、その1タラントンを土の中に隠し、そのまま差し出した所、主人から厳しく叱られるというお話です。タラントンとは、当時の通貨単位であ り、6000デナリオンと同等の価値があり、今の日本円にすれば約5000万円の価値があります。これだけ考えれば、聖書は金儲けの勧めをして いるようですが、実はここには深い意味があります。このタラントンとは英語のTalentの語源となっており、Talentとは日本語の才能や能力と訳せ ます。そしてこの主人は神様であり、僕は私達人間を意味しています。つまりこの物語は、神は人間それぞれの力に応じ、あるものには5の才能 や能力、あるものには2の才能や能力、あるものには1の才能や能力をお与えになりました。5と2の才能や能力を与えられた人間は、精一杯努 力し、それを倍にします。その努力の成果に対し、神は喜び、さらなる能力や才能を与えられます。しかし1の才能や能力を与えられた僕は、せっ かくの力を土の中に隠し、なんの努力もせずに神の前に差出し、神に厳しく叱られるのです。この神様が人間それぞれの力に応じて与えて下さっ た能力や才能を賜物と言いますが、今朝のテキストは、その賜物をしっかりと活かすこと、その賜物をみがく努力を惜しまないことを語っているので す。

  まさしく高校時代とは、その賜物を研く努力をすること時であります。自分の為、自分を支えてくれる人の為、自分を愛してくれる人の為、日々 努力をする時です。目に見える様々な誘惑や、自分の心の中にある「怠け」という最も厄介な誘惑に打ち勝ち、研鑽に励む時です。後5分。後1 秒。後1メートル。あと一歩と、自分を高めるべく、鍛えぬく時です。その為には努力が必要です。ただ時間の経過をじっと、何もせず過ごす時では ないのです。自分の賜物を活かすべく頑張らねばならない時なのです。又、その賜物が何なのかを発見するもの高校時代が一番効果的でありま す。様々な学問。様々の行事。様々な出会いを通して、自分の賜物を発見する時でもあります。その為には、自分自身の神経を研ぎ澄まし、賜物 を発見すべく、努力せねばならないのです。与えられた賜物を見いだし、それを活かす、それが高校時代すべき一番のことなのであります。しかし 皆さん、その努力をされておられるでしょうか。せっかくの賜物を発見せず、解っていても活かしきれていない。そんなもったいないことをしていない でしょうか。自分の賜物を土に隠しておく、愚かな僕のように過ごしていないでしょうか。どうかそのことを今一度考えでみて頂きたいのであります。

  何度も言いますが、高校時代とは、与えられた賜物を発見し、それを活かす時であります。どうかその為に努力してください。誘惑に打ち勝ち、 時に自分を苦しめてまでも、高める努力をしてください。それは決して生易しいものではありません。

 ある面、苦しみもがくことかもしれません。けれど1のことに取り組む姿、1つのことに努力する姿は、感動をも与えるのです。自分の頑張りが他 の人を勇気付け、生きる支えともなるのです。それだけの力が高校生の皆さんにあるのです。そのことを信じて、しっかり頑張ってください。そし て、例え誰も見ていなかったとしても、神様はご覧になっておられます。5タラントンや2タラントンの僕の用に、自分の賜物を活かし、努力すれば、 より多くのものを神が与えてくださるのてす。どうかそのことを信じて、頑張ってください。この学院に集う一人一人が、自分の賜物わ最大限活かす 努力を惜しまない群れであることを、心より節に願う次第であります。

◆個性的で豊かな価値観とは◆



 最近、建築の安全基準、食料品や製紙業など、さまざまな分野で偽装が問題になっています。また、現代の私たちの社会は格差社会といわ れ、大儲けをする企業がある一方、一生懸命に働いても満足な収入を得られない人が増えています。ワーキング・プアと呼ばれるこれらの人たち は、まじめに働いても生活保護水準以下の収入しかありません。なぜ、そのような社会になってしまたったのでしょうか。

 私は、こうした問題の背景にはやはり、個人の努力とは別に、社会の仕組みがあるからだと思います。ワーキング・プアの問題も、その人が努力 すれば解決する問題ではなく、たとえその人たちが頑張って定職につけたとしても、今度は別の誰かがワーキング・プアになるだけのことでしょう。 今私たちの社会は、ますます市場原理と競争原理が支配する社会になりつつありますが、そこでは必ず勝ち組と負け組ができる社会です。そん な社会の仕組みにわたしたちは振り回されているのではないでしょうか。

 しかしこうした社会の問題は、私たちと無関係に出てきたものではなく、私たちもそうした社会の一部であることを忘れることはできません。つま り、問題を生みだし、支えているのは私たち自身であり、私たちの持つ価値観だということです。

 かつて私たちはさまざまな価値観を持っていました。たとえばものを買うにしても、価格だけでなく、商品の品質を重視する人とか、他にない個性 を重視する人とか、あるいはそれを扱う人との信頼関係のほうがずっと大切だと考える人など、いろんな価値観を持つ人がいて、そのため一部の 店だけに人が流れることがなく、どこでもほどほど儲けがある…これこそが健全な姿ではないかと思うのです。それが今では一斉に同じところに殺 到します。それは私たちが豊かな価値観を失ってしまい、ただ高いか安いか、損か得かで行動する単純で貧しい価値観に支配されているからで はないでしょうか。

 今日読んでいただいた聖書には次のような一節がありました。「下着を2枚持っている者は、1枚も持たない者に分けてやれ。食べ物も持ってい るものも同じようににせよ。」 また、徴税人には、「規定以上のものは取り立てるな」と言い、兵士には、「だれからも金をゆすりとったり、だまし取 ったりするな。自分の給料で満足せよ」といっています。

 大きな富を儲けるよりも、華々しい栄光をつかむよりも、みんなが普通に働いて、普通に助け合い、普通に暮らせるようになることなによりも大切 であり、そういう当たり前の価値観をこの社会に生きる一人一人がしっかりと取り戻すこと、それが大切なことだと聖書は私たちに語ってくれるので す。

 皆さんがやが出ていくこの社会もやはり、さきほど述べた市場原理と競争社会であることは同じでしょう。でも鎮西学院で学んだ皆さんには、そ んな原理に振り回されずに、個性的で豊かな価値観を持って生きていってほしいと思います。そうすることでこの世の中も少しずつ変わるのではな いでしょうか。皆さんが将来そんな「地の塩、世の光」のような人の一人になったら、また私もそんな一人になれたらと思います。

◆クリスマス装飾のもつ意味◆

クリスマス装飾


 キリスト教会では、クリスマスのおよそ4週間前からその準備期間に入ります。これを「アドベント」と言います。たとえば、私の立っている聖壇の すぐ前にかかっている紫色のパラメント。このパラメントの色が以前の「緑」から「紫」に変わったのも、紫がアドベントを象徴する色だからなのです。

 私のすぐ左にあるこのアドベント・クランツもまた、アドベントを象徴する装飾の一つです。このアドベント・クランツはクリスマスの4週間前から1週 間ごとに1本のろうそくに火をつけ、4本すべてのろうそくに火がともるとクリスマスを迎えるということになります。アドベント・クランツはモミの木の 小枝で作られており、真上からみると、ちょうどドーナツのような形をしています。緑の部分は地球を、赤いリボンは、自らの命を犠牲にして人々の 罪を背負ってくださったイエス・キリストの血を表しています。そして、ろうそくの炎は、イエス・キリスト自身を表し、イエスの愛の教えが2000年も の間、世界の人々の心をあたたかく照らしていることを象徴しています。このろうそくの炎がクリスマスの装飾のもっとも代表的なものであることは 言うまでもないでしょう。

 クリスマス装飾に象徴されるように、イエスは私たちの心をあたたかくして下さいました。しかし最も大切なのは、クリスマスを祝うだけでなく、私 たちがイエスの愛の教えを実践していくとうことにあるのです。クリスマスを迎えるにあたって、ここに集う皆さんがイエスの愛と十字架の意味をか みしめ、それを周囲の人たちに実践していくことを、切に祈ってやみません。

◆聖書に書いてあることって事実なの?◆



 あるとき、1人の生徒が私にこう尋ねました。「先生、聖書に書いてある話って本当にあったんですか?」

 おそらくその生徒は、聖書に書かれてある出来事だけではなく、神そのものの存在も含めて私に尋ねたかったのでしょう。これは素朴な問いかけ のようですが、実に非常に大切な問いかけだと思うのです。なぜなら、私たちはまず事実を正しく理解して、それからそれによって物事を考え、判 断し、行動するからです。もし私たちが事実でなく「誤解」に基づいて行動を起こせば、その行動によってあるいは多くの人が傷つき、あるいは取り 返しのつかない結果を招くかもしれません。

 では事実とはいったい何なのでしょうか。いま皆さんがこの講堂のなかで座っている、というように直接体験していることも事実ですし、地球が太 陽の周りをまわっているなど、科学によって知られる事実もあります。しかし、私たちには自分が直接体験したり、科学によって知ることができる事 実よりももっと大切なものがあるように思うのです。

 一つ例を挙げましょう。皆さんは過去のことをどのくらい覚えていますか?小学生・中学生だったころのことを思い出してみてください。担任の先 生やクラスメートの顔と名前、学校の様子など、大体は覚えているのではないかと思います。では、小学校入学前ではどうでしょう。5歳・4歳・3歳 と過去にさかのぼるほどそのときの記憶は薄れてゆき、2歳のときの記憶はまったくと言っていいほどないと思います。1歳・0歳の時のことを覚え ている人は恐らくいないでしょう。

 でも、記憶のない空白の時期について深く考えてほしいのです。空白の2年間、そこには、深い愛情を私たちに傾けてくれた存在があるはずで す。深夜になっても2・3時間置きにミルクを求めて泣きわめく自分、そしてその自分にミルクを与えてくれた存在。ミルクを飲んでもなお泣きわめく 自分を抱っこしてあやしてくれた存在。毎日何回も何回も自分でさえくさくてたまらないウンチをきれいにふき取ってオシメを換えてくれた存在。まだ 首のすわらない自分を毎日大切に風呂にいれてくれた存在。鼻がつまって苦しんでいる自分を見かねて鼻水を吸い取ってくれた存在。目をこらし ながら、魚の骨を一本一本抜いて食べさせてくれた存在。…私たちは身の回りのことができるようになってからの記憶は鮮明ですが、私たちが何 もできず、人生一番深い愛情を注いでもらった時代のことはほとんど記憶になく、それゆえ、そのように深い愛情を注いでくれた、自分のことを世界 のだれよりも深く愛してくれる、そのような存在を忘れて物事を考えることがあるのではないでしょうか。

 このように考えると、幼児期のことに限らず、私たちは自分の経験による記憶、あるいは科学に頼りすぎるために、本当に大切なものについて考 える機会が少ないことに気づかされることでしょう。しかし、私たちが認識できる事実には限界があり、限界があるからこそ、認識する事実だけでな く、目に見えないものについて考え、それに基づいて行動することが求められているのです。

 ここで、讃美歌の510番を見てみましょう。その2節の歌詞を読んでみます。「幼くて罪を知らず、胸にまくらして、むずかりては手に揺られし、昔 忘れしか…」 

 これは、「お前が赤ちゃんだったときは幼かったためにただ母親に甘えていた。おまえはいつも母親の胸にだかれ、そして、お前が少しでも機嫌 を悪くすると、そのたびに、お前を抱いてあやしてくれたんだよ。そのことを考えてみよう。」という意味なのです。

 この歌詞は幼かったころのことを歌ったものですが、現在についてはどうでしょう。もう赤ちゃんではないから、だれにも迷惑をかけていない。だれ の世話にもなっていないと考える人がいるかも知れません。でもよく考えてみてください。夜、屋根の下で寝ることができるのは、誰の愛情によるも のなのか、朝ごはんを食べられるのは誰の愛情によるものなのか、学校で勉強し、放課後クラブにいそしめるのは誰の愛情によるものなのか、友 達と遊ぶことができるのは誰の愛情によるものなのか。

 私たちは意識している以上に本当に多くの人たちの愛情を受け、多くの人たちに守られて生きていることに気づかされます。いえ、むしろ皆さん の考えの及ばないところでもっと多くの人たちが皆さんのことを愛しているのです。それにもかかわらず、人は物事を感覚的に理解し、自分に直接 恩恵を与えてくれる人の方ばかり見てしまい勝ちですから、影で無条件の本当の愛を注いでくれる人の存在に気づきにくいものなのです。また、 人間は生まれた直後からかかわりを持つ社会がしだいに広がっていくために、小学校、中学校、高校、大学、と付き合う人の数が増えていくにつ れて、本当の愛情を注いでくれる家族や、周りの人たちに対する愛情が薄れていくのでしょう。

 ここで、先ほどの讃美歌510番の1節の歌詞を見てみましょう。

 「幻の影を追いて浮世にさまよい、うつろう花に誘われ行くなが身のはかなさ。」…「お前は本当に大切なものを見失って、自分が楽しい、自分に とって苦にならない、そういうものだけを求めるようになった。その姿のなんとはかないことか。」といっています。本当に大切なものを見失わないで ほしい…そういった作詞者の気持ちがここにこめられているのです。

 本当の愛とはこのように皆さんの気づきにくいところにあります。そして神の愛もまた同じようなものなのです。たとえ神を信じていなくても、神は 皆さんに愛をそそいでくださいます。しかし、いくら神様が私たちを愛してくださっても、私たちがそれに気づかなければ、いや、気づこうとしなけれ ば、神との交わりの中で本当の自分を見つめることはできません。神とはこのような存在なのだ、といえば、先ほどの生徒の問いに少しは答えた ことになるのかなと思います。(以下略)

このほか、英和礼拝(通訳つきの英語礼拝)も行われています。
英和礼拝についてはESSクラブのHP(English Chapel)をご覧下さい。>>>詳細